行動予測と対応策と人の気持ち002
なぜ「気を使っているのに」うまくいかなかったのか
前回、
私は「相手の身になって考える」を、
「相手を観察」し、
「要求を予測」し、
「必要そうなものを提供」すること。
だと思っていたという話を書いた。
だが実際には、
それだけでは人間関係はうまくいかなかった。
むしろ、
気を使えば使うほど、
警戒されたり、
距離を置かれたり、
便利な人扱いされることも多かった。
ではなぜそうなるのか。
最近になって、
ようやく見えてきたことがある。
それは、
「人の事を考える」というのは、
単に相手の要求を考えるだけでは足りなかったということだ。
人間関係は「内容」だけでは決まらない
私は長い間、
「相手が何を望んでいるか?」
ばかり考えていた。
だが人間関係では、
それ以外の条件が大量に存在していた。
例えば、
「誰が言ったのか?」
「どの距離感で言ったのか?」
「どのタイミングだったのか?」
「周囲の空気はどうだったのか?」
「相手は何を期待していたのか?」
「自分はどう見られていたのか?」
である。
私はこれを、
あまり考えられていなかった。
いや正確には、
相手の要求ばかり優先して、
「自分がどう見られているか」を
軽視していた。
「誰が言ったか」で意味は変わる
例えば同じ言葉でも
「好かれている人」
「信頼されている人」
「距離が近い人」が言えば
「気が利く」で終わる。
しかし、
「よく知らない人」
「苦手意識を持たれている人」
「距離感が遠い人」
が同じことをすると、
急に意味が変わる。
これはかなり残酷だが、
人間関係では普通に起きる。
つまり人は
「内容」だけで反応しているわけではない。
「誰がやったか」で、
同じ行動の意味が変わるのである。
距離感を間違えると「怖い」
私は、
相手を観察しすぎる傾向があった。
困っていそうなら先回りし、
必要そうなら事前に準備し、
危なそうなら予測して防御していた。
だが、
距離感ができていない状態でこれをやると、
相手からすると意味が変わる。
「よく見てくれている人」ではなく、
「なぜそこまで見ているのか?」
になる。
つまり、
相手の要求は読めていても、
関係性の距離感を読めていなかった。
これはかなり大きかったと思う。
タイミングと空気も「評価」に含まれている
更に厄介なのは、
人間関係では、
「正しいかどうか」
だけではなく、
「今それを言うべきか?」
「今それをやるべきか?」
「周囲がどういう空気か?」まで
含めて判断されることだ。
例えば正論でも、
空気を壊すタイミングで出せば嫌われる。
逆に内容が薄くても、
空気に合っていれば受け入れられる。
私は長い間、
「正しさ」や「必要性」を優先していた。
だが共同体は、
「自然さ」や「安心感」を先に見ていた。
相手の期待と、自分への評価
そして一番抜けていたのは、
ここかもしれない。
私は、
「相手は何を求めているか?」
は考えていた。
だが、
「相手は私をどう見ているか?」を、
あまり考えていなかった。
これは、
「相手の身になって考える」を
しているつもりで、
実は一番抜けていた部分だった。
例えば、
嫌いな相手や、
警戒している相手に、
必要以上に先回りされたらどう感じるか。
普通に怖いのである。
「なんでそんなに知っているの?」
「なんでそこまで見ているの?」となる。
つまり私は、
「相手の要求」
ばかり見ていて、
「相手から見た自分」
を見落としていた。
「気を使う」と「安心される」は別問題
ここまで来てようやく
私は、
「相手の身になって考える」
という言葉の難しさが少しわかってきた。
相手の要求を読むことはできても、
「自分がどう見えるか?」
「どの距離感なら自然か?」
「どこまで踏み込むべきか?」
「どこで止めるべきか?」まで考えないと
人間関係では逆効果になることがある。
「気を遣うこと」と
「安心される」ことは別問題だったのである。
全部背負おうとすると壊れる
私は長い間、
相手の要求や空気を読み、
問題を予測し、
先回りして対応しようとしていた。
だが、
それをやればやるほど、
処理量は増える。
そして、
相手の問題まで背負い始める。
しかし実際には
「そこまでやらなくていい」
という境界線が存在する。
むしろ、
全部対応しようとするほど、
不自然になる。
だから今思うのは、
「相手の身になって考える」とは、
「相手の要求を全部背負うこと」では
なかったということだ。
相手を見るだけではなく、
「自分がどう見られているか?」
「今どこまで踏み込んでいいか?」
「この距離感で自然か?」まで
含めて考える必要があった。
そして私は長い間、
「理解すること」と、
「自然に振る舞うこと」を、
同じものだと思っていたのである。


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