行動予測と対応策と人の気持ち001
相手の身になって考えるというのは?
私はよく
「相手の身になって考える」
という言葉に引っかかる。
「もっと相手の身になって考えろよ」
という要求を聞いたことがある。
成功者に話を聞くと
「まず、相手の身になって考えることだね」
と自慢げに言っているのもよく聞く。
更に有名な言葉として、孫子の兵法には
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」
という言葉がある。
ただ、
これらは似ているようで、
微妙に意味が違う気がしている。
私は長い間、
「相手の身になって考える」とは、
「相手の状況や立場を観察し、」
「行動や要求を予測し、」
「必要そうなものまたはサービスを提供すること」
だと思っていた。
だが、世の中で使われている
「相手の身になって考える」は、
どうもそれだけではないらしい。
1 「相手の身になって考えろ」の意味
まず、
「もっと相手の身になって考えろよ」という言葉。
これは、
実際には「相手理解」の話ではないことが多い。
多くの場合、
「気が利かない」
「自分の期待通りに動かない」
「欲しい反応が返ってこない」
という不満を、
正しい要求っぽく言い換えた言葉だと思っている。
つまり、
「もっと俺の欲しい動きをしろ」
という意味に近い。
この要求をする人自身が、
本当に相手の身になって考えられるかは、
あまり関係ない。
2 成功者の言う「相手の身になって考える」
一方で、成功者が言う
「まず相手の身になって考えることだね」
という話は少し意味が違う。
これは、
「相手を観察し」
「相手の欲求を読み」
「それを満たす形で誘導し」
「自分の利益やサービスに繋げる」
という意味で使われていることが多い。
つまりこれは、
かなり高度な「行動予測」と「需要把握」の話だ。
だから私が考えていた
「相手を観察して必要なものを読む」
という考え方と、
そこまでズレてはいない。
3 「彼を知り己を知れば百戦殆からず」
この言葉も、
実際にはかなり構造的な話だと思う。
相手の状況、要求、目的、最終目標を観察しながら、
「自分の能力」
「自分の立場」
「自分の条件」
と比較してシミュレーションする。
つまり、
「相手を理解する」だけでなく、
「自分がその相手に対して何ができるか」
を冷静に計算する話だろう。
発達障害と「相手の身になって考える」
私は発達特性としてASD、
いわゆる自閉症を持っている。
そのため、
「相手の気持ちがわからない」
と言われることもある。
ただ、
これはかなり雑な説明だと思っている。
なぜなら、
私はむしろ普段から、
「観察」
「行動予測」
「状況分析」で
人間関係を処理している部分が大きいからだ。
これは、
「相手の身になって考える」
ができなければ成立しない。
ではなぜコミュニケーションがうまくいかないのか。
理由は単純で、
処理量が多すぎるのである。
観察して、
予測して、
整理して、
危険を回避して、
相手の要求を考えているうちに、
返答が遅れる。
いや、正確には、
「どの返答が正しいのか迷う」。
すると、
「反応が不自然に見える」
「タイミングがズレる」
「煮え切らない態度に見える」
という悪循環が起きる。
つまり、
相手の身にはなれている。
しかし、
それが自然な会話能力として
表面化していないだけなのだ。
発達障害が人に気を使った行動をすると…
では、
「相手の身になって考える」を使って、
先回りして行動するとどうなるのか。
もちろん失敗すれば、
「そんなことは言っていない」
「考え過ぎだ」
と言われる。
では成功したら感謝されるのかというと、
残念ながらそうでもない。
私の場合、
反応は大体3種類だった。
1 警戒される
異性ならストーカー扱い。
同性なら、
「何か裏があるのでは?」
「ハメようとしているのでは?」
と警戒される。
2 手下だと思われる
「あ、コイツ言うこと聞くな」
と思われると、
便利な人間として扱われる。
すると逆に、
「もっと相手の身になって考えろよ」
という言葉が飛んでくる。
3 舌打ちされる
これは、
相手がこちらを利用したり、
押し込もうとしていた場合だ。
こちらが予測して防御すると、
露骨に不機嫌になる。
両親からは
「下種の勘繰り」
「被害妄想」
と言われることもある。
ただ、
実際に防げているケースがある以上、
私には完全には否定できなかった。
「相手の身になって考える」は万能ではない
ここまで書いていて思うのは、
「相手の身になって考える」は
確かに重要だが、
それだけで人間関係が
うまくいくわけではないということだ。
私は長い間、
「相手を観察し」
「要求を予測し」
「必要そうなものを先回りして提供する」ことが
「相手の身になって考える」だと思っていた。
だが、人間関係では、
「何をしたか」だけではなく
「誰がやったのか」
「どの距離感でやったのか」
「どのタイミングでやったか」
「どんな空気でやったか」まで
含めて意味が変わる。
つまり、
「相手理解」と
「共同体の中で自然に振る舞う能力」は別物だった。
つまり、
「気持ちを理解すること」と、
「空気を読むこと」は、
似ているようで別能力だということである。



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