「謝ったら死ぬ病」はなぜ発生するのか?
共同体の正義004
謝ったら死ぬ病
集団(共同体)にはそれぞれ
「内部の正義」が存在し、
「現実社会を軽く見るようになる」
と書いた。
そうすると、
ここでさらに厄介な問題が出てくる。
それは、
「間違いを認められなくなる」
という現象だ。
もちろん、
最初から
全員が悪意でごまかしているわけではない。
むしろ逆で、
多くの場合、
本人たちも、
「なんかおかしくないか?」
とは思っている。
しかし、
そこから修正へ進めなくなる。
なぜか。
よくメディアとかで言われている
「謝ったら死ぬ病」だ。
共同体は「修正」に弱い
集団(共同体)は、
基本的に「理屈上の正しさ」で維持されている。
言い換えると
「社会正義とつじつまが合っている」
という前提で動いている。
だから、
社会問題や不祥事、
他人の公序良俗を犯すような行為が認められた場合、
「そこ間違ってました」
を真正面から認めると、
正当性が崩れる。
すると、
小さい修正の場合、
「黙ってごまかす」
どうしても修正不可避の場合でも、
「説明して修正を遠ざける」
方向へ行きやすい。
「誤解だ」
「切り取りだ」
「文脈が違う」
「相手も悪い」
「本質は別にある」
など、
問題そのものより、
正当性主張し始める。
「謝ったやつを殺しちゃう病」
主な理由は
敵側が失敗した時の攻撃手段として
「相手が再起不能(もしくは死ぬまで)になるまで攻撃する」
責め方を普段しているからだ。
「相手の自宅に押し掛ける。」
「個人情報の拡散(もちろん違法)」
「口先だけの対応指南」
一様に激しい。
もちろん
正義(倫理的・法律的)に反している部分もある。
しかし、
交換条件として許されると思っている。
そこに
「謝ったやつを殺しちゃう病」が
存在している。
本来なら、
修正できる方が健全なはずだ。
しかし現実には、
「認めたなら全部認めろ」
「ほらやっぱり悪だった」
「逃げるな」
「責任を取り続けろ」と、
謝罪後も延々と追撃することがある。
激しい理由は簡単だ。
殺してしまえば
逆らえないからだ。
人は、
「自分は正義側だ」
と思い込むと、
驚くほど残酷になれる。
それが逆に、
自分の頭上に迫る時
人はわが身に置き換えて
初めて考える
そして焦る。
まず考えるのは
わが身の保身
だから、
「謝る」より、
「ごまかせないか?」と考える。
籠城戦だ。
結果として、
仲間内では、
「おかしな擁護をした人」の方が、
戦っているように見える。
修正にはコストが発生する
では
「素直に謝って修正するとどうなのか?」
という話だ。
人は誤りを認め
修正を申し出た場合、
「面子を失う」
「地位が下がる」
「仲間内評価が落ちる」
「過去発言と矛盾する」
「敵側に攻撃される」
「切り捨て対象になる」など、
様々なコストを払うことになる。
特に、
強く発言していた人ほど、
修正コストは高くなる。
なぜなら、
今まで他人に向けていた理屈が、
自分に返ってくるからだ。
だから人は、
「今さら引き返せない」状態になる。
引き返せない時の「反応」
引き返せなければどうなるのか?
特に、
「仲間が見ている」
「立場がある」
「過去発言が残っている」
「今さら引き返せない」
この状態になると、
なぜか批判に対して
ファイティングポーズを
取り始める。
これは、
思想や立場に関係なく、
かなりよく起きる。
例えば、
一つ目は、
「逆ギレ型」だ。
本当は、
本人も薄々、
苦しいとわかっている。
しかし、
そこを掘られたくない。
だから、
「お前はわかってない!」
「極論だ!」
「そんなこと言ったら○○はどうなる!」
など、
急に声を荒らげたり、
極端な話を始めたりする。
外から見ると、
感情的に見える。
しかし実際には、
「これ以上触られると困る」
いや
「わかったから黙っていてほしい」という
防御反応だったりする。
二つ目は、
「論点ずらし型」だ。
これは、
元々話していた問題から、
「言葉尻」
「態度」
「別問題」
「相手の矛盾」など、
「攻撃しやすい場所」へ
話を移す。
本来の論点が苦しくなるほど、
この動きは強くなる。
本人たちは、
「うまく論点を外した」
つもりなのかもしれない。
しかし外から見ると、
本来の話から逃げているように見える。
三つ目は、
「ゲーム理論型」
これは最近かなり増えた印象がある。
「これはレスバだから」
「議論は勝ち負けだから」
「相手を論破するゲームだから」
という形で、
「本心ではない」
「戦略として言っている」
方向へ逃がす。
もちろん、
本当に戦略的な場合もある。
しかし中には、
自分がおかしなことを言っている苦しさを、
「ゲームだから」
という形で、
ごまかしているように見える時もある。
こういった防衛反応が始まると、
「修正」より、
「負けないこと」を
優先し始める。
そして、
小さい修正で済んだはずの問題が、
どんどん大きくなっていく。
共同体は「急に止まれない」
集団(共同体)は、
一度勢いがつくと、
途中で止まりにくい。
支持者の熱狂の中
正論で武装し、
多少の違法も社会正義でごまかせていた。
悪の組織を叩き潰す。
正義の戦士たちよろしく、
待機して日夜戦闘準備を怠らない。
「ここで止まったら負け」
という空気が発生する。
すると、
本来なら小さい修正で済んだ問題が、
どんどん大きくなる。
しかも厄介なのは、
途中で、
「これおかしくない?」
と思っている人がいても、
言い出しにくいことだ。
なぜなら、
組織内で
「空気読めない奴」になるからだ。
客観的に見ると
どう見てもおかしいのに、
「たとえ屁理屈でも理屈は通っている」
と思っている。
だから人は、
少しずつ取返しがつかなくなっていく。
分岐点は「間違い」より「修正不能」
私は、
人間社会から矛盾や間違いを、
完全になくすことは無理だと思っている。
思想でも、
会社でも、
学校でも、
地域でも、
ネットでも、
必ずズレは発生する。
問題なのは、
その時に、
「確認ができるか?」
「修正ができるか?」
「途中で止まれるか?」
だと思う。
しかし集団になると、
人は「絶対的な正義」に
しがみつきたくなる。
常に「評価する側」でいたいのだ。
現代社会のギスギス感の一部は、
この
「修正から逃げて正義を強弁する態度」
から来ているのだと思う。


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