修正不能にならないための、小さい訓練
共同体の正義005
引き下がれない理由
ここまで、
人は一定の組織に所属していると
「共同体の正義」を持ち上げるあまり、
「私は評価する立場である」と
錯覚してしまい、
違う意見の者に、
激しい攻撃を行うが、
逆に評価される立場の場合、
「謝る」、「修正する」
ということになった場合、
自分たちが攻撃したのと
等価のコストを支払う必要が
生じると感じるため、
それを恐れ、
攻撃的に修正を拒むことがある。
と書いた。
共同体は半分制御不能
私は、
共同体そのものを
悪だとは思っていない。
社会的には意味があって、
世の中を動かす思想の基盤になったり、
生きる指針の模範を誰かに求めたり、
社会の基盤、サービスのもとを作ったり、
私生活のセーフティネットになったり、
仕事も、
生活も、
共同体なしでは成立しない。
ただ共同体は、
意見集約の結果や、
その時の勢いによって
思っている以上に
制御不能になることがある。
例えば、個人的に
「この場合の対応はこれが正しい。」
と思っていても、
「ウチの組織的にはこう」
と判断が違うこともあっても
組織に合わせなければならなかったり、
どの常識に照らし合わせてもおかしな対応を
納得して対応しなければならなかったりする。
共同体には「矛盾を処理する役」がいる
私は昔から、
共同体の中で、
妙に
「矛盾を飲み込む役」
になりやすかった。
何を押し付けられていたのか、
細かい内容は、
正直あまり覚えていない。
ただ、
「なんとなくおかしい」
「でも空気的に飲むしかない」
「説明しづらい」
「なぜかこちらが処理する」
という感覚だけは、
かなり残っている。
共同体は、
時々こういう
「貧乏くじ役」を作る。
しかもそれは、
能力ではなく、
立場や空気で決まる。
強く言える人間、
キレない人間、
落としておいていいと思われる人間へ、
処理コストが集まりやすい。
逆に、
共同体の中心側は、
説明を作る側になる。
だから、
同じ共同体でも、
「修正コスト」が全然違う。
修正コスト
私は個人的に、
失敗が多く、
様々な場面で、
修正コストを支払ってきた側だと思う。
だからこそ、
「修正できることが大事だ」
と言われても、
そんなに簡単な話ではないとも感じている。
修正には、
実際にはかなり重いコストが発生する。
1 修正作業そのもののコスト
仕事で修正が発生した場合、
まず必要なのは、
「何を間違えたか」
ではない。
「なぜその判断に至ったか」
を全部洗い直すことだ。
目的。
判断。
経路。
確認漏れ。
思い込み。
伝達。
環境。
役割。
つまり、
目的までの「動線」を調べる。
そして、
「どこを修正するか?」
「修正後どうなるか?」
「他へ影響しないか?」を
シミュレートする。
その後で、
「修正報告」
「謝罪」
「責任範囲」
「対応判断」を行う。
場合によっては、
賠償提案や、
上へ判断を委ねることもある。
つまり修正とは、
単なる「ごめんなさい」ではない。
大量の確認と、
精神的負荷と、
再構築作業だ。
2 修正後にもコストは残る
さらに厄介なのは、
修正が終わっても、
コストが残ることだ。
失敗した側は、
信用を失う。
発言力も落ちる。
「またミスするのでは」
という目で見られる。
しかも、
修正したこと自体は、
あまり加点されない。
基本的には、
マイナス評価の回復戦になる。
だから人は、
修正を恐れる。
特に、
何度も貧乏くじを引かされてきた側ほど、
この重さを知っている。
管理は任せて消費者側で…
共同体の底辺側に所属していると、
人として雑に扱われることがある。
「こういうキャラなんだから」
「ここはこういう流れでしょ?なんでしないの?」
「お前が処理する流れだろ」
「車においてかれて走って追いかけてるのが絵になる」
これって人としておかしくないか?
ということも
エスカレートすると平気でやる。
その心中は理解しきれないけど、
共同体のメインにいるということは、
それだけで自分都合の物語として、
とらえていることがある。
その物語の構成員は
自分を構成し、
自分がケアしている者だけで、
それ以外については、
どうでもいい。
共同体内部でそうなのだから
自分たちの攻撃で
結果として事故が起きた。
その犠牲者などは、
都合の悪いノイズでしかない。
その後始末についてどう思うかと言えば、
「昨日食べたもの覚えてる?」
くらいの感覚でしかない。
一方で、
その責任問題とすれば
「自分の仕事ではない」と言う。
当事者意識は欠如していると思う。
そこまでして在籍している必要はないよね
私がよくわからなかったのは、
私的な共同体に関してだが、
「なんでそんな扱いをして、
人が残ると思っているのか?」
だった。
でも今思うと、
扱いをした側は、
「離脱した方が損する」
前提で動いている。
地元。
学校。
職場。
家族。
SNS。
趣味。
人間関係。
こういうものは、
離脱するコストも高い。
だから、
多少無理をさせても、
しがみつくと思いやすい。
時々思うのは
そういう集まりの
中心にいる人は、
下の人間が
なぜこういう扱いを受けるか
理解していないことがある。
案外フワッとした状態でも
いられるというのが不思議だ。
きっと私は、
発達特性が人と違うから、
「途中から本質を周りに合わせる」
ということが
理解できないのだろう。
「修正可能」が必要なのは誰なの?
共同体の
修正可能不可能の話をしておいて
こんなことを言うのは恐縮だが、
大事なのは
「あなたの発言が修正可能か?」
ということだ。
いくら個人的に
意思があったとしても
「共同体の正義」は
曲げられない。
多くの人の意向があるからだ。
だから
重要なのは
「あなたの修正可能性を残すこと」と
思っている。
例えば、
「前の考え違ったかもしれない」
「ちょっと言い過ぎた」
「まだ結論を急がない方がいい」
こういう小さい修正を、
早めにできること。
人は、
一度強く言い切ると、
思っている以上に
引き返せなくなる。
だから逆に、
小さい修正を、
日常的にやっておく。
「修正=敗北」
にしない。
そうすると、
共同体の空気が
強くなった時も、
完全に飲み込まれにくくなる。
修正不能にならないための小さい訓練
共同体そのものを
完全に避けるのは
無理だと思う。
だから必要なのは、
「飲み込まれない訓練」
なのだと思う。
しかも、
大げさな話ではない。
むしろ、
かなり小さいことでいい。
例えば、
- わざと小さい予定変更を入れる
- 段と違う順番で作業する
- 自分の発言を後から見直す
- 一回出した結論をメモして翌日に再確認する
- 「本当にそうか?」を一回だけ挟む
- 一つの意見だけで決め切らない
- あえて小さい修正を認める
こういう、
小さい「修正経験」を増やす。
人は思っている以上に
一度決めたことを、
引き返せない。
だから逆に、
普段から、
「少し修正しても死なない」
経験を積んでおく。
すると、
共同体の空気が強くなった時も、
完全に飲み込まれにくくなる。
具体的に
何から始めたらいいかと考えると、
「ブザーを利用した予定構築と行動管理」
から始めていいと思う。
私は
介護なしの老人ホームで
働いていたことがあり、
掃除をしながら
入浴の際の湯張りを
忘れることもあったので、
必要時間15分前に
ブザーを鳴らすようにして対応した。
最初は自信がなく、
湯張りの仕事が気になっていたが、
慣れてくると
ブザーで思い出すようになった。
意外とブザーをかけておくと、
人は予定を覚えているもので、
集中して忘れることや、
途中で仕事中断して
別の仕事やるという
いわゆる「切り替え負荷」が
意外と軽いことを認識できた。
もっと複数のルーティーン業務で試したかったが、
整理された状態で準備があれば、
切り替えコストは
思ったほど大変ではないのだ。
小さな修正コストも同じで、
情報が整理された状態ならば、
罪悪感なく
簡単に修正できるものなのだと思う。
余談ではあるが、
最初にブザーで管理するのは、
忘れてもいい予定からにした方が
心理的負担は減る。
まあ試して、
いろいろ工夫してみるのがいいと思う。
共同体に「全部」を預けない
私は、
仕事や生活のために、
共同体へ所属すること自体は
必要だと思っている。
ただ、
人生そのものを預け始めると、
人は簡単に修正不能になる。
だから必要なのは、
共同体を完全否定することではなく、
「少し距離を取りながら参加する」
ことなのだと思う。
そして、
空気や正義より先に、
「自分が納得できるライン」
を残しておくこと。
「ごまかしている自分」
に慣れないようにしたい。
最近は、
そんなことを考えている。


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