極論化の構造001
なぜ人は極論を使うのか?
最近、
SNSやニュースでは、
極端な言説が飛び交っている。
また、
私も極論を言ってしまったりする。
- 「全部○○のせい」
- 「日本はもう終わり」
- 「○○を信用するな」
- 「○○を絶対に許すな」
- 「○○は排除すべき」
こうした言葉は、
単なる感情論や暴走として扱われやすい。
私も、
極論を言うときは感情論も一部あるし、
聞いている周りの人は、
「私が感情でものを言っている」と決めつける。
確かに、
感情的な極論も存在する。
しかし実際には、
それだけでは説明できない場面も多い。
例えば、
人は危険を説明する時にも極論を使う。
- 「このままだと破綻する」
- 「放置すると取り返しがつかなくなる」
- 「最終的にはこうなる」
もちろん
「現在そうなっている」と言いたいわけではない。
むしろ、
「この方向へ進むと、どこへ到達するのか」
を短時間で説明しようとしている。
つまり極論とは、
単なる暴走ではなく、
「思考の方向性の到達点」
として使われることがある。
ではなぜ、
人はそこまで極論を必要とするのだろうか。
人には「向かいたい方向」がある
人間には、それぞれ欲求がある。
- 美味しいものを食べたい
- 安心して暮らしたい
- 自由でいたい
- 金持ちになりたい
- 生き残りたい
- 幸せになりたい
そして、人それぞれに置かれた状況がある。
- 家庭環境
- 身体特性
- 知力
- 運動神経
- カリスマ性
- 生育環境
などだ。
欲求には「理想」が存在するが、
現実は複雑だ。
どんな理想に到達するためにも、
- コスト
- 条件
- 法制度
- 競争
- コミュニケーション
- 教育
などが絡む
すると人は、
「進行方向」を選択する必要が出てくる
この場合において
種々の障壁や自分のスペックとにらめっこして
手堅く中道を歩むという選択もあるが、
基本的に手探り状態なので、
いつ到達できるか想像がつかないような
いばらの道が想定される。
そのため
最短距離で到達する手段の一つとして、
「極論」を利用して過程を逆算する方法がある。
極論とは、
「論理を最後まで進めた時の到達点」を示すことで、
方向性を分かりやすく共有する手段だからだ。
つまり極論は、
- 危険予測
- 方向表示
- ベクトル圧縮
として機能している。
人間性とは極論のトレードオフなのかもしれない
ここで重要なのは、
「人間は最初から社会性が身についているわけではない。」
ということだ。
生まれた時から泣くことで自分の生を主張して、
親若しくは保護者の世話を受ける。
人は本来、
まず自分の欲求や不快感を基準に行動する生物だ。
自我が芽生えて判断がつくようになるまで
四方八方に極論のベクトルを持っている。
しかしながら
- 教育・しつけ
- 常識
- 道徳
- 倫理
- 法律
- 現実
- 損得
- 他者との関係
によって、
欲求と現実の折り合いをつけていく
つまり社会性とは、
「極論のベクトルを消すこと」ではなく、
「複数の極論と現実に折り合いをつけること」
によって成立しているのかもしれない。
本当に危険なのは「極論に踊らされること」
人間の思想はもっとバラバラなはずだ。
安全保障では現実主義でも、
環境問題では慎重派かもしれない。
福祉では支援寄りでも、
別の問題では自己責任を重視するかもしれない。
本来は、
論点ごとに別のベクトルを持つ。
極論のベクトルが電車だとしたら、
本来は各駅停車のはずなのだ。
問題は、極論そのものではなく、
- 修正できない
- 途中で降りられない
- 所属から抜けられない
- 部分否定できない
状態なのだと思う。
本来、
人は論点ごとに乗り換えていい。
しかし現代は、
「どちら側か」
という所属判定が強くなりやすい。
すると、
- 一度乗った路線を降りにくい
- 間違いを認めにくい
- 部分修正しにくい
状態になる。
その結果、人は途中修正より、
「最後までそのベクトルを正当化する」
方向へ進みやすくなる。
すると、本来なら疑うべき情報であっても、
「自分の進行方向と一致している」
という理由で受け入れやすくなる。
人は必ずしも、
デマを「信じ込んでいる」だけではない。
むしろ、
「自分の向かいたい方向に合っている」からこそ、
そこへ乗ってしまうことがある。
「極論」とは、
単なる過激思想ではない。
むしろ、
「人間がどこへ向かいたいのか」
を圧縮した方向表示なのかもしれない。
そして本当に重要なのは、
「極論を持たないこと」
ではなく、
必要なのは、
自分の進行方向を、
他人の扇動や所属圧力へ
丸ごと預けないことなのだと思う。


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