共同体はなぜ一貫性を失えないのか

説明

― おかしいのに正しいことにする頭の動き ―

共同体の正義001

「なんかおかしくないか?」と思っても、人は簡単には方向転換できない

最近、

TVやネット議論を見ていて、

「それ前に言ってたことと違わないか?」

と思う場面が増えた。

元公務員なので、

前々から気にはなっていた。

同じ過失割合に見える事故でも、

片方は徹底追及、

もう片方は短いナレーションだけで終わる。

以前なら強く批判していた行動を、

別の立場の相手にはあまり問題視しない。

逆に、

以前なら擁護していたものを、

立場が変わると激しく攻撃する。

外から見ると、

行動基準が一貫していないように見える。

だが内部にいる人たちは、

そこまで強い矛盾として感じていない場合がある。

なぜかというと、

人は「自分は間違っている」

と思いながら生きるのが苦しいからだ。

 人は「おかしい」と「正しい」を同時に抱えられない、

例えば、

自分が応援している集団や人物が、

問題行動を起こしたとする。

本来なら、

「そこはダメだよね」

と認めれば済む話だ。

そういう人はもちろんいる。

しかし実際には、

そう簡単にはいかない。

なぜなら、

その集団を支持してきた自分自身の判断まで、

揺らぎ始めるからだ。

すると人は、

無意識に「整合性」を作ろうとする。

「今回は事情が違うからやむを得ない。」

「相手側にも問題がある」

「切り取り報道だ」

「本質は別にある」

「大義のためには仕方ない」

こうやって、

「あれ?これっておかしいんじゃないか?」

という気持ちを、

自分自身を2~3発殴って、

「いや○○は完璧なはずだ」と

心の中に言い聞かせて、

頭の中で再整理していく。

つまり人は、

単純に嘘をついているというより、

「自分の中でつじつまを合わせよう」としている。

しかしながら、

本人たちも100%納得しているわけじゃない。

その証拠に

正論の批判に対し、

真正面で答えなかったり、

攻撃的な反論だったり、

極端な例を出して黙らせたり、

大声で怒鳴って威嚇したりする。

これを正面から受ける人は黙るが、

周りで見ている人は白い目で見ている。

私はこの光景に、

妙な懐かしさを感じてしまう。

それほどよくある光景だ。

人は言うほど自由じゃない

人は

生まれてから生を全うするまで

いろいろな拘束を受ける。

  • 法律
  • 道徳
  • 倫理
  • 生活環境
  • 才能
  • 宗教

などがそれに当たる。

出発点としては野生的な要求も

これらの「拘束の壁」にぶち当たることで

その形を変容させていく。

特に

生育状況で思想的なものに影響を与えるのは

種々の所属する「共同体」である。

それは、

「国」であったり「家庭」であったり

「教育機関」・「労働環境」

「様々なコミュニティ」や

「SNSの仲間」までいろいろある。

そういった共同体に所属することで、

自分の中の「正しさ」を模索し

思想の方向性が固まってくる。

ただし、全ての人が

同条件で同じ共同体に所属しているわけではないので、

仲間内のノリだとか常識だとかが

現実社会では通用しない時がある。

「無理やりつじつまを合わせなければならない時」

自分の意見が一般社会とズレていることに気づき始める。

一般社会と共同体のズレ

社会という大きな共同体は、

雑多な共同体を

法律や道徳などで規律することで成立する。

大きさは一国家単位が限界とみている。

だから国家の範囲内での

「法律」「常識」「道徳」が

一般社会のそれに該当する。

国家の範囲内での

「法律」「常識」「道徳」は

それぞれ絶妙なバランスでできているのだが、

「共同体の正義」とズレてる。

ズレ方の度合いは

場合によって異なるけれど、

社会と合一することはあり得ない。

ここで重要なのは、

このズレが出る現象が

個人だけの問題ではないということだ。

共同体は基本的に

「自分たちは正しい」という認識を持っている。

「この活動は社会のためだ!」

「この運動は弱者を守っている!」

「この会社は公共性がある!」

「この組織は公平だ!」

「このグループは仲間を守る!」

こういった

「正当な理由付け」で

共同体が存在する。

その中には、

明らかに世間と逸脱して、

社会と衝突する団体もあるが、

社会に溶け込んでいる団体もある。

社会に溶け込みながらも

一貫して整合性の取れた論理が成立しているため、

「ある程度強引な手法を行っても許される」とか

「大義が保たれていれば周りはいずれ納得する」などの

思想をもって活動しているが、

共同体内部における

一般社会との共通デバイスによって

擁護されるパターンがある。

共同体の内外で強く擁護され続けると、

「自分たちは多少逸脱しても守られる」

という感覚が発生することがある。

その状態が進むと、

社会ルールより内部論理を優先し始め、

ある種の全能感に近い状態になる。

昔は共同体ごとの「説明」が閉じた空間で成立していた。

でも今は、

外部から比較・検証されるようになって、

「内部だけで維持できる正義」が崩れやすくなった。

だから、

そういった共同体の内部で矛盾が発生すると、

単なるミスでは終わらない。

「その正しさ、本当に成立してるの?」

という問題に変わってしまう。

すると共同体は、

間違いを修正するより先に、

「正しさを維持する説明」を作り始める。

こういう勘違いは条件がそろえば起こりうる。

ここを勘違いしてはいけない。

これは、

右とか左とか、

保守とかリベラルとか、

そういう単純な話ではない。

会社でも、

学校でも、

地域でも、

趣味サークルでも、

ネットコミュニティでも起こる。

人間は共同体を作ると、

そこに「内部の正義」を作り始める。

そして、

その正義を守るために、

現実の解釈が見えなくなる瞬間がある。

その「不都合なズレ」の下手な言い訳として

つじつまの合わない無理な解釈をすることがある。

だからこそ必要なのは「修正能力」だと思う

共同体そのものが悪いわけではない。

人は一人では生きられない。

組織も、

仲間も、

協力も必要だ。

問題は、

「間違えた時に修正できるか」

だと思う。

正しさを守ることより、

修正できることの方が、

本当は健全なのかもしれない。

なぜなら現実は、

最初から完璧な人間も、

完璧な思想も、

完璧な共同体も存在しないからだ。

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